劣等感やコンプレックスと向き合う 学歴コンプ編

なんかアンニュイな気分の土曜日の夜はブログでも書いて気晴らしをすると良い。ちなみにストレスレベルが上がると自分は日本から持ち込んだ古今和歌集の解説書を常に持ち歩くようにしている。我流のストレス解消法だが、1000年も前に詠まれた和歌を読んでいるだけで、たいていの悩みはどうでもよくなってくる。ちなみに古今和歌集ではないがお気に入りの和歌は
安倍仲麿
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

遣唐使、つまり当時の中国への留学生が留学先でみた月を見ながら故郷を想う詩である。この方はけっきょく日本に帰ることはできなかったようで、一生を中国で過ごすのだが。当時はもちろん留学はおろか海を渡ることすら文字通り命がけのことで、年に複数回ヨーロッパから日本へ気楽にぴゅーと帰る自分と比べたらそれはもう壮絶なことで比べることもおこがましいのだが(そもそも当時の留学生なんてエリート中のエリートであったろう)、見上げる空や星や月を眺めながら故郷を想う気持ちというのは同じだと思う。
ほかは西行法師なんかも好き。これは自分が好きなゲーム東方の影響をかなり大きく受けているのだが、もちろん学部生のうちに青春18きっぷをつかって西行終焉の地である弘川寺にも赴いて聖地巡礼してきたし、和歌山県のかつらぎ町という西行堂まで訪れたことがある。どちらもかなりアクセスが悪かったのだが、これは本当に幸運なことでヒッチハイクとかまったくしていなかったにもかかわらず現地の人に2回も車に乗せてもらったことがある。まぁこの話は後日写真とともに別で書きたいと思う。

閑話休題。
劣等感というものは誰でも大なり小なり抱えて生きているものだと思っている。まったく劣等感が無いという人はほとんどいないだろう。無いと断言できる人でも実はただそれに気づいてなかったり気づかないふりをしているだけなのではないか。コンプレックスという単語も日本語ではなぜだかわからないけどこの意味で使われる。学歴コンプレックスだったり職業コンプレックスとか、Twitterやっていると頻繁に目にする単語である。そもそも日本人はTwitterが大好きなのでみんな好き放題つぶやいているわけだが、やはりコンプ、嫉妬、劣等感、あるいはルサンチマンとかそういう負の感情を吐き出すための場として使っている人も多数見受けれる。つぶやきという独り言でただ吐き出しているならいいが、他人を煽ったり口撃しているのは良くない。


自分に関してはどうか?
最近はそういう自分の中の負の感情と向き合うくらいは心の余裕があるのでたまにいろいろ考えたりもするのだが、自分は劣等感とかコンプレックスとかそういうのは表には出さないけどそれに気づかないふりをしていた典型的なパターンだったと思う。まぁこれはすでに過去形であって今は振り切った感がありわりとサバサバしているのでこういう記事を書くことにはあまり抵抗がない。
従来のコンプレックスの型に当てはめるならば学歴コンプレックスとか青春コンプレックスとかだろうか。ただここでいう学歴コンプレックスというのは日本でよく使われる意味での学(校)歴コンプとはまた違う。自分は大学は第一志望行けたし、高校は公立に落ちて自称進学校の私立だったが、そもそも高校受験そのものに無頓着だったので落ちてもたいして落ち込みはしなかった。(高い学費を払ってくれた親には本当に感謝している)
そもそも進学校の選択肢も限られており、地元に残る人はだいたい似たような大学に行く受験戦争なんて単語とは無縁な東北出身である。のちに東京で塾講師のアルバイトをしていて首都圏の熾烈ともいえるような受験競争やいわゆる教育ママとかいうものを実際に垣間見て東京というのは恐ろしいところだと思ったものである。
進学で東京に出てきても自分の大学に関して言えば受験業界で使われる偏差値という指標で言えばもちろんそれよりも上に位置する大学なんてたくさんあったがそれらの大学に対しる劣等感とかそういった感情を抱いたことは思い返してもなかったとおもう。(断言はできない)
それに修士・博士と大学院まで行くと大学名なんて気にならなくなるものだ。国内学会とか行くと本当に全国から様々な大学の人が来ててなんなら教授とか学生とかいう立場さえ超えて対等な場で口頭発表、ディスカッションしてる様を見るとそういうのはいちいち気にしてはいられなくなる。ああいう場では「どこ所属の誰が」よりも「何を」言っているかがより重要でありそうあるべきである。
また、これはより国際標準的な考え方かもしれないがどこの大学だろうが学士よりも修士、修士よりも博士であることがより高学歴であるとみなされる。世界的に誰もが知っているような、例えばハーバードとかケンブリッジであれば見方も変わるかもしれないが、そうだとしてもより重要なのはそこで何を学んだか、つまり専攻である。実際に海外に出て外国人と接してこのあたりの認識の違いに触れることはよい経験であった。外国人から見れば日本の大学の序列はどうでもいいし気にもされない。就活の場ですらそうだ。重要なのは大学の名前ではなく、専攻で具体的に何を学んだか、この一点のみである。

自分の場合は「”日本(強いて言えば東京)の大学・大学院”の”工学部”で”電気・電子工学”を学んだ」で学歴の話は終わりである。相手が修士・博士まで出ているようであればもう少し具体的な話をするだろうが。これはジョブ型雇用の良いところである。自分のやりたい仕事に対して仕事内容に関連する部分で評価されるわけだから、大学の名前自体は能力の保証としてはまったく考慮されない。ただ韓国人に関しては韓国で日本と似たような(あるいは日本よりも激しい)受験戦争文化があるのでけっこう話が盛り上がると思う。自分も実際、サムスンで働いている韓国人の友達と両国の受験・就活について延々と話してたことがある。

なんか長々と書いてしまったがつまるところ、自分は大学名に対してのコンプはないしなんなら日本・オーストリアの母校に対する愛は強い方だ。基本的に学生生活には満足していたので。では上で挙げた学歴コンプレックスとはなにか。これはおそらくより純粋な意味での「学」歴コンプレックスで大学院という文脈に当てはめるなら研究コンプとか業績コンプとかに言い換えてもいいだろう。
自分は、今ではもう博士課程を修了するための業績(査読付き論文)は確保できたし(そもそもあまり厳しくない)マイクロ波工学分野で研究に必要な能力というのもハード・ソフトの両面で十分にあると自負しているし、そもそも博士論文もウチの研究所から過去に提出されたものを読むとそこまでハードルも高くないのであとはDone is better than perfectの精神で博論さえ終えればもうすべて終わりである。ただ振り返ってみればD1・D2の前半くらいまでは自分の能力や研究アウトプットの面で無意識的に他人と比較して自分の気づかない間に落ち込んでいるようなことがあったと思う。これは博士課程生活を送るうえで本当によくない。たとえばTwitterでまったく違う分野の人の論文アクセプト報告で心が乱されるようなことがあればもうそれ黄色信号が点灯していると思う。すぐにスマホを閉じて古今和歌集を携えて散歩にでも出かけた方がいい。同分野であれば客観的な指標として自分がどれくらいの位置にいるのか知るのにはちょうど良いのかもしれないが、でも他人と比較して勝手に落ち込んでいるのは精神衛生上本当によくないことだ。そういうのも含めて博士課程ってのはどこまでいっても他人との競争ではなく自分との闘いなのだろう。Twitterでたまにそういうので競争したくてうずうずしている人を見かけるが、車のあおり運転と大差ないと思う。のってしまったほうが負けである。

なので最近は博士課程のゴールが見えるにつれ、自分にも自信がついて他人と比較することもなくなった結果、こっちの意味での学歴コンプもすでに解消されてもうすでにノイズレベルであると言ってよいだろう。negligibleである。もちろんそういう感情に苛まれる瞬間がまったくないわけではないと思うが、いぜんと比べてはるかにマシな状態であることは疑いの余地もない。
もしかしたら環境が大学から企業に移ったことも大きな影響があるかもしれない。けっきょく博士課程のコミュニティで見られる殺伐とした空気はその職業自体がinsecureであることから来てると思っているのでよりsecureな仕事を得ることが解決策のひとつだろう。

以上が自分のなかのコンプレックスの1つについて最近考えていたこと。長くなってしまったのでもう1つの青春コンプレックスには次回触れたいと思う。ただこちらに関しては学歴コンプなんかよりおそらくよっぽど重症なのでもっと長くなってしまうかもしれない、というよりは今回よりも恥の気持ちが大きいので書くだけ書いて非公開で終わるかもしれないが、schau ma mal.

では Gute Nacht.

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