震災から10年、振り返る

2011年3月11日
10年経ったらしい。あの瞬間のことは今でもはっきりと思い出せる。これからも忘れないだろうが、ここで一度振り返ってみる。

 

 当時は高校3年生だった。高校の卒業式が終わって第一志望の国立大に落ちてほぼ浪人が確定した矢先の出来事だった。その日は国立後期試験の前日だったが、あまり志望度が高くない地方国立大を受験予定でモチベもほとんどなく普通にシューティングゲームで遊んでいた。(その後、震災の影響で二次試験は無くなりセンター試験のみで合否が決定された。結局受かったけど浪人した)

 東方妖々夢Exで遊んでいたら初期微動を感じた。生まれも育ちも仙台で何年か女川でも過ごしていたこともあり震度5、6の地震はそれまで何回か経験していたのでこれはデカいのがくると直感した。そして犬(以下リン、誇り高きジャーマンシェパード)が吠える吠える、いつもの吠え方とは違い悲鳴のような吠え方だったのでなだめるために部屋を出て玄関へと向かった。玄関にたどり着いたつかの間、主要動が来た。揺れていたときの瞬間はとにかく吠えるリンを守るため抱きかかえるのに必死だったことと天井の照明が落ちてこないか不安だった。実際は数分間揺れていたらしいが体感的には数秒間の出来事のように感じた。とにかく家族の無事を案じた。

 

 揺れが収まってからどんな行動を具体的に取ったのかは覚えていないが数軒離れた祖母の家に行き祖母の無事を確認したり、弟と手分けして地震後の基本的な対処を行ったことは覚えている。完全に停電していたものの、断水とまではいかなかったのでとりあえず生き残ることはできるだろうと思った。当時まめに更新していたモバゲーの日記は今でも残っている。


 あの時、リンが吠えていなければ、のんきにゲームしていた自分は本棚とハリポタ全巻と落ちた志望校の赤本につぶされていたかもしれないと思うとリンには感謝してもしきれない。家族の帰りを待ち望みながら外を眺めたときに、3月だというのにものすごい勢いで雪が降っていて、本当にこの世の終わりなんじゃないかと思ったものだ。

命の恩人(犬)、昨年の夏に、ジャーマンシェパードとしてはかなり長生きの15歳で旅立った。咥えているのは自分がタイで買ってきたお土産


その日は祖母宅の方が頑丈だからという理由でそちらに泊まった。災害の備えもあったし石油ストーブで暖を取ることもお米を炊くこともできた。みんなでレトルトカレーを食べたと記憶している。
夜は居間でリンを含めたみんなで雑魚寝した。家族で一つの部屋にまとまって寝るのはあれがおそらく最後。乾電池で稼働するタイプのラジオを聞いて徐々に被害状況が明らかになっていくのが怖かった。家から何キロも離れていない地区の海岸で100人近くの遺体が発見されたとの報が一番衝撃的で心に残っている。
 翌日も停電は復旧していなかった。食料を確保するために近くのコンビニへ向かったのだがそこにはのちにニュースにも取り上げられていたように長蛇の列ができていた。食料となりそうなものはすべて売り切れ状態だったものの溶けきったアイスが無料だったのでスーパーカップ抹茶を手に家に帰ったことを覚えている。3日目も午前中まで依然として停電は続いていた。中学校以来の友人たちと信号すら点いていない道路を自転車で走り回って食料が買えそうな店を探していた。帰り際、信号が点く瞬間を目撃し、停電が復旧したことを悟った。それからは徐々に生活が元通りになっていった。普段我々がどれだけ電気に頼っていたのかをまざまざと実感させられた。


 数日たって、高校の担任から電話があった。進路に関する話ともう一つ重要な知らせについてだった。クラスメイトが一人、津波で亡くなった。のちに、裁判沙汰にもなる津波にのまれた自動車教習所のバスに乗っていた一人だった。いつだったか定かではないが彼の葬式にはほかのクラスメイト達と一緒に参列した。彼らとはつい先日卒業式で別れを言ったばかりなのに、その数日後、内一人の葬式にて再会するなんて、これほど辛いことがあるだろうか。亡くなった彼の親友が大泣きしながら別れの言葉を述べているのを見てひどく心が傷んだ。国公立二次試験の全日程も終了し、全員の進路が確定している時期。地元の大学に進むものもいれば東京に出ていくものもいる。不思議と自分の周りには浪人するものも多く(自称進学校の宿命か)、本来であれば再会すればまた一年頑張ろうとお互いを励ましあうのだろう。亡くなった彼のこと思うとひたすらそんな気にはなれず、その日は全員ただただ重い雰囲気に飲まれて、口数も少なかった。

 その1,2週間後、再度担任から電話があった。受話器を取る前から薄々感づいてはいたが、クラスメイトがもう一人、遺体で発見されたということだった。その彼に関しては、自分たちが参列できるような葬儀は行われなかったため、別れの時間も与えられなかった。クラスメイトが二人亡くなったという重く消えない事実を残したまま、4月から始まる新生活の準備に追われていた。高校は実家よりも数キロほど海に近い場所にある。実際、最寄駅まで津波は到達し、当時は学校に残っていた生徒と教員は津波の直接的な被害を受けなかったとはいえ、立ち往生せざるを得なかったらしい。卒業した直後だったので具体的な数字は把握していないが亡くなった生徒や家を失った生徒もいただろう。自分の場合、家族・親戚からは死者は出なかった。母方の祖母は気仙沼、父は女川勤務といずれも甚大な被害が出た場所にいたが幸い、難を逃れていた。

 震災の年、一度気仙沼へ出向いたことがあった。祖母の家は沿岸部に近いながらも高台にあったため、津波の被害は受けなかった。しかしながら、町の一部は丸々消失していた。子どものころよく訪れていたシャークミュージアムや市場、建造物は残っていても周りの民家等が流され、がれきに埋もれているような様はさながら映画のようだった。小さいころ遊んでいた公園は避難テントが張られたまま、何もかもが自分の知っている気仙沼とは違うようだった。インフラも完全復旧していない状態でちょっと下水のにおいが漂う中、仮設店舗で食べた復興ずしの味も忘れないと思う。あれを目の当たりにすると本当の被災とはどんなものか思い知らされる。住む家を失い、食料も十分に行き渡らず、明日生きていけるかわからない状況に置かれる人のことを思うと同じ被災地域にあっても自分たちとはまったく状況が異なっていて、自分たちの体験談を話すことすら憚られる、というような気持になる人は少なくないのではないかと思う。ウチは被災らしい被災はしていない、というのは母の談だが、まったくその通りだと思った。

今から2年前、ヨーロッパへと発つ数週間前には、母のすすめで気仙沼市にある東日本大震災遺構・伝承館 (旧気仙沼向洋高校)も訪れた。津波が直撃し4階まで水が浸かった生々しい傷跡がそのまま残されている。気仙沼を訪れる人はぜひ行ってみてほしい。

震災関連はどうしても涙腺が緩くなってしまう。仙台駅に行って初めてがんばろう東北の横断幕を見たときやトモダチ作戦、あまり関係ないけど当時流れていた九州新幹線開通のCMにも心打たれていた気がする。2013年の楽天日本一の瞬間はすでに東京にいたがテレビの前で号泣してしまった。

震災から1年経ち、仙台を出てからは6年間東京に住み、それ以降はオーストリアにいる。故郷からはどんどん遠ざかっていくがそれでも最低年2回は里帰りを今までもこれからもしていきたいと思う。

ヨーロッパに来て、英語もドイツ語のニュースも理解できるようになった今、当時の震災がどのようにヨーロッパで取り上げられていたのかをたまにアーカイブで辿るときがある。震災関連ではTsunamiとFukushimaという単語がよく目に入る。自己紹介で出身はSendaiと言うよりもFukushimaの隣と言った方が間違いなく通じる。当時のことをたまに聞かれるが、どうしても口がつぐみがちになってしまう。というのも、自分はやはり生死を彷徨うような過酷な状況を経験しているわけでもなく、震災を除けば人生のほとんどを平和の中で暮らしてきた自分が、実際に内戦を生き延びたシリアやイエメン出身の同僚もいる中で、いやー死ぬところでした、とは言えないし何か気がきいたことを言うこともできない。

自分に何かできることはないか、とは最近よく思うことだが、その中に震災の怖さを伝えていくことは含まれていない、いや、確かに怖い思いをしたけど、こうして自分のブログであったことをありのまま綴る以上にできることはない。どちらかというと生活をより良くするためのテクノロジーの面や教育・人材育成の面で故郷を支援したいとはエンジニアとして常々思っている。三十路が見えてくる中、まだしばらくは海外にいるだろうが、いずれは故郷に戻ってそういう取り組みをしていきたい、という思いが震災後10年という節目を迎えて強くなった。

終わり。


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